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一言 gallery 人生 |
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イギリスの代表的なロマン派詩人。
William Wordsworth(ウィリアム・ワーズワース)
1770年 - 1850年
「始めるために、始めなさい。」
73歳で桂冠詩人となる。
ワーズワースは1770年、北西イングランドの「湖水地方」と呼ばれる風光明媚なコッカマスに生まれる。
早くに両親を亡くし、孤独な少年時代を支えたのは自然の美しさであった。
1798年から1799年にかけ自伝的作品を書き始め、『ルーシー詩篇』を含む多数の代表的な詩を書く。
その後、サウジー、コールリッジと並び「湖水詩人」として知られるようになるが、
この頃のワーズワースの作品は
主に死や別離、忍耐や悲しみに関する詩であった。
1839年にオックスフォード大学からD・C・L(Doctor of Civil Law)の名誉学位を送られ、
アメリカに
おいてもワーズワースの人気は一般的なものとなる。
1843年には桂冠詩人の栄職が与えられた。
著「ルーシー詩篇」 「プレリュード」 など。
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オーストリアの作曲家、演奏家。
Wolfgang Amadeus Mozart(ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト)
1756年 - 1791年
ウィーン古典派音楽の3巨匠の内の一人。
「私達の財産、それは私達の頭の中にあります。」
ザルツブルクの宮廷作曲家・ヴァイオリニストであった父を持ち、ザルツブルグに生まれる。
モーツァルトは幼少時より音楽教育を受け、
5歳のときには最初の作曲『アンダンテ ハ長調 K.1a』を発表。
父とともに音楽家としてザルツブルク大司教ヒエロニュムス・コロレド伯の宮廷に仕える。
1781年、25歳のモーツァルトはザルツブルク大司教の命でウィーンに定住。
以降、フリーの音楽家として演奏会、オペラの作曲、レッスン、楽譜の出版などで生計を立てた。
ウィーンではピアニストとして人気を誇ったが、モーツァルト自身の品行が悪く、
高給な仕事に恵まれなかった事で
収入が減り、借金を求める手紙が多く残されている。
1791年、1月がモーツァルトの最後のステージになる。
このころより、徐々に体調をくずし、35歳の若さでウィーンに永眠した。
作 ピアノソナタ:「第11番『トルコ行進曲付き』」 交響曲:「第41番『ジュピター』」 など。
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エピグラムの始祖とされているローマの詩人。
Marcus Valerius Martialis(マルクス・ウァレリウス・マルティアリス)
40年 - 102年
「過ぎ去った日々を楽しめる人は、人生を二倍楽しんでいる。」
スペイン出身のラテン語詩人。
古代ローマ皇帝ドミティアヌス、ネルウァ、トラヤヌスの統治期間にあたる
西暦86年から103年の間に発表されたエピグラム(エピグラムマタ、警句)の本で知られている。
当時のローマ社会の種々な出来事や人物像を写実的,風刺的に描き,
外見の下に隠れている虚偽と悪徳を鋭い洞察によりあばき出した。
全部で1561篇の詩を書き、そのうち1235篇はエレゲイオンの形式を使っている。
マルティアリスの作品はルネサンス期に再発見されて高い評価を得た。
ルネサンス期の作家たちはその時代の都市の悪徳と相通じるものを
マルティアリスの詩の中に見たのである。
マルティアリスは多くの人々に影響を与え、今日のエピグラムの始祖と見なされている。
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自分が醜いアヒルだと思っていたころは、
こんなたくさんの幸せがあるなんて思ってもみなかった。 |
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デンマークの代表的な童話作家・詩人
Hans Christian Andersen(ハンス・クリスチャン・アンデルセン)
1805年 - 1875年
1805年デンマーク、フュン島の都市オーデンセで産まれる。
1816年に靴職人の父親が亡くなり、学校を中退。
オペラ歌手を目指すが挫折・その後も様々な挫折を繰り返す。
その後はデンマーク王や政治家のコリンの助力により、大学まで教育を受ける。
1829 年には『ホルメン運河からアマゲル島東端までの徒歩旅行。
1828と1829における(A Journey on Foot from Holmen's Canal to the East Point of Amager)』を
自費で出版しドイツ語版も出るほどの好評を得る。
デンマークに戻ってきた1835年に最初の小説『即興詩人』を出版。
この作品は、発表当時かなりの反響を呼び、アンデルセンの出世作となる。
以降70歳で亡くなるまで、多くの創作童話を世に送りだし、世界中の人々に愛されていた。
著「即興詩人」 「人魚姫」 「親指姫」 など。
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失敗には達人というものはない。 人は誰でも失敗の前には凡人である。 |
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ロシア近代文学を代表する詩人&作家。
Aleksandr Sergeyevich Pushkin(アレクサンドル・セルゲーヴィチ・プーシキン)
1799年 - 1837年
ロシア近代文学の嚆矢とされる。
「決定をあせってはいけない。一晩眠れば、よい知恵が出る。」
プーシキンはモスクワに生まれる。
父親は由緒ある家柄のロシアの地主貴族。
母親の祖父アブラム・ペトロヴィチ・ガンニバルは、
ピョートル大帝に寵愛された黒人奴隷上がりのエリート軍人であった。
プーシキンは早くから文学に親しみ、リツェイ(学習院)での公開試験で朗読した
自作の詩『ツァールスコエ・セローの思い出』が、デルジャーヴィンに認められる。
これを機に、その才能はロシアの文学界に広く知られるところとなった。
1820年、最初の長編詩『ルスランとリュドミーラ』を発表。
プーシキンは、はじめて作品のなかに積極的に口語を取り入れて
独自の語りの文体を作り上げて近代文章語を確立し、後代のロシア文学に影響を与えた。
著「ルスランとリュドミーラ」 「スペードの女王」 など。
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フランスの詩人。
Jean-Antoine de Baif(ジャン=アントワーヌ・ド・バイフ)
1532年 - 1589年
ロンサールの友人であり、プレイヤード派の一人である。
「よくこねないと、うまいパンは食べられない。」
ラザル・ド・バイフの息子としてヴェネツィアに生まれる。
幼い頃から、一流の学者たちの教育を受けた。
家庭教師の中で特筆すべきはフランスの人文主義者であり
詩人のジャン・ドラであり、後にコレージュ・ド・コクレでも彼に師事することになる。
バイフは多作ではあったが、どれも一流の作品とはいえなかった。
その中では『宝庫、教訓及び格言』(1581年)が比較的優れており、
古代の作詩法との対比を行うことで、フランスに新しい韻律をもたらそうとした。
多くの音節でリズムを確立する代わりに、長短の配列を基礎に置いたのである。
1570年にフォーブール・サン=マルソーの自宅に詩学・音楽アカデミーを開設したが、
長くは続かなかった。劇場でバイフはテレンスの『宦官』や
プラウトゥスの『勇者』の翻訳を任されていた。
著「恋愛詩集 les Amours」 「流星 les Meteores」 など。
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未来がどうなるか、あれこれ詮索するをやめよ。
しかして、時がもたらすものが何であれ、贈り物として受けよ。 |
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古代ローマ時代の南イタリアの詩人
Quintus Horatius Flaccus(クィントゥス・ホラティウス・フラックス)
紀元前65年 - 紀元前8年
「とりあえずは金を儲けること。徳は金の後。」
ウェルギリウス(B.C.70-19)と並び称される、
アウグストゥス(B.C.63-A.D.14) 時代を代表する古代ローマ詩人。
その作風は辛辣な批判や風刺で知られるが、基本的には「中庸の精神」を信条として説く。
ラテン語の詩の語法、韻律、詩形、修辞などの完成者でもある。
南イタリアのアプリア地方のウェヌスィア(現ヴェノーザ)に生まれる。
12歳のころ、父とともにローマに上り教育を受け、18歳のときアテナイに赴き文学と哲学を修める。
アテナイ滞在中にカエサルの暗殺、ピリッピーの戦いが起こり、
彼はブルートゥスの軍に参加した(B.C.42)。
ブルートゥスがアントニウスとオクタウィアヌスの連合軍に敗れると、
彼は故郷に逃げ戻る。以後、故郷で詩作を始める。
書簡詩『詩について』(Ars poetica)はアリストテレスの『詩学』と並んで、
古典主義詩論で重要視された。
このなかの一節「詩は絵のように」(ut pictura poesis)は、のちに絵画にも拡大され、
近世詩論および絵画論に影響を与えた。
著「風刺詩」 「詩集」 「エポーデス」 など。
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ルネサンスを代表するフランスの作家、歴史家
Thomas Paine(トマス・ペイン)
1737-1809年
Francois Rabelais(フランソワ・ラブレー)
1483-1553年頃
「笑いは、人類の財産である。」
『ガルガンチュワ物語』(もしくは『ガルガンチュア物語』)と
『パンタグリュエル物語』からなる
『ガルガンチュワとパンタグリュエル』で知られる。
フランソワの生涯は謎が多い。
中部フランスのトゥレーヌ州のシノン近郊の村に生まれる。
修道士となり、ひそかにギリシア語を学んだ。
また医学を学び、医師となり人文学者のエラスムスらとも交流している。
1532年以降に中世の巨人(ガルガンチュア)伝説に題材を取った
物語を順次刊行する
(『ガルガンチュワとパンタグリュエル物語』)。
当初はペンネームで発表。
大人気を博すが風刺的で猥褻な表現から禁書となる。
その後『第一の書 ガルガンチュア物語』『第三の書 パンタグリュエル物語』
『第四の書 パンタグリュエル物語』を刊行するが
すべてがパリ大学神学部によって禁書に指定される。
迫害を受けて国内外を転々とし、1550年フランスに戻るが、
1553年、消息不明となった。
この年死去していたことが近年になって確認された。
著「パンタグリュエル物語」 「ガルガンチュワ物語」 など。
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帝政期ローマの政治家、歴史家。
Cornelius Tacitus(コルネリウス・タキトゥス)
55-120年頃
個人名はプブリウス(Publius)ともガイウス(Gaius)ともいわれるが
どちらかは不明で、通常は個人名を除いて表記される。
「人間は地位が高くなるほど、足もとが滑りやすくなる。」
属州出身者であり、かつ騎士身分の出であった。
アグリコラの女婿となり、元老院議員となる。
97年にはルキウス・ウェルギニウス・ルフスの死を受けて補充執政官に就任。
古代ローマ最大の歴史家とされ、史料としての評価が高い。
またその著述の文学的評価も高く、ラテン文学の白銀期の作家の一人に数えられる。
著作はローマ帝国の衰亡を憂い、共和制時代の気風の回復を訴えるものが多い。
これはタキトゥスが「頽廃」の影響の少ない属州出身者、騎士身分の出身であったこと、
フラウィウス朝下でローマの風俗の引き締めが見られたこと、
ドミティアヌス治下で「暴君」を経験したことなどが考えられる。
またタキトゥスの著作がネルウァ、トライヤヌス治下で書かれており、
自由な言論が許される環境であったことも考えられる。
著「アグリコラ Agricola」「同時代史 Historiae」「年代記 Annales」など。
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何を考えているか、何を知っているか、
何を信じているかは、それほど重要なことではないのです。
唯一重要だと言えるのは、何をするかです。 |
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イギリスの評論家、美術評論家。
John Ruskin(ジョン・ラスキン)
1819-1900年
「たいていの大きな失敗の原因は、自身の傲慢さが底にあるのです。」
1819年、ロンドンに生まれ育つ。早くから聖書と詩にめざめていたが、
少年ラスキンをとりこにしたのは鉱物だった。
この趣味はずっと持続され、ラスキン独得のストイックな岩石絵画に影響を与えていく。
ラスキンの美術に関する考えは、一言で言えば
「自然をありのままに再現すべきだ」ということであった。
この思想の根幹には、神の創造物である自然に完全さを見出すという信仰があった。
美術評論の分野で高い評価を得る一方、ラスキンの思想は、
ガンジーやプルースト、レフ・トルストイ、夏目漱石など、
様々なジャンルの偉人達に影響を与えたことで知られている。
著「近代画家論」 など。
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驕慢(きょうまん)なるこの世の神々や提督どもに
刃向かいながら、
己の頑固なる自我を押し立ててゆく
男にこそ、
歓びはあるのだ。 |
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アメリカの作家、小説家。
Herman Melville(ハーマン・メルヴィル)
1819-1891年
「不幸はナイフのようなものだ。刃をつかめば手を切るが、取っ手をつかめば役に立つ。」
1819年、ニューヨークの裕福な輸入商の家に生まれる。
11歳の頃家が破産し母の実家を頼りニューヨークを去る。
2年後父が多額の負債を残し死去。ハーマンは学校を中退し働き始める。
16歳で教員の資格を取りその後小学校の教員を務めるが、
家計が逼迫し生活が成り立たなくなり、1840年、捕鯨船アクシュネット号の乗組員となる。
以降、船長の横暴に耐えかねて脱走しタイピー族の部落に保護され3週間過ごすことや、
船長反逆罪で逮捕されるなどの波乱万丈な航海は、後の彼の作品に大きな影を落す。
1844年にアメリカに帰国。ハーマンは文筆業で身を立てようと、
当時流行していた海洋小説に手を染める。
1846年、タイピー族との暮らしを描いた処女作『タイピー』を発表。
その後も精力的に創作活動を続けるが、当時の読者には受け入れられなかった。
傑作『ビリー・バッド』完成後の1891年に死亡。
難解な作風のため、一部の愛好者を除いて無視され続けていたメルヴィルの作品は、
死後30年を経た1920年代に大学教授レイモンド・ウィーバによって再評価の動きがおこる。
以降、メルヴィルの評価は上昇し今やアメリカを代表する文学者として
世界中に知られるようになった。
著「ビリー・バッド Billy Budd」「白鯨 Moby-Dick」「タイピー Typee」など。
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心が変われば行動が変わる。
行動が変われば習慣が変わる。
習慣が変われば人格が変わる。
人格が変われば運命が変わる。 |
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アメリカの哲学者・心理学者。
John Dryden(ジョン・ドライデン)
1842-1910年
「人間は幸せだから歌うのではない。歌うから幸せになるのだ。」
ジェームズは神学者の息子として、ニューヨークに生まれた。
1865年に博物学者ルイス・アガシのブラジル探検に参加し、
生物学に興味を持つようになり、ハーバード大学で医学を学び
解剖の技術を身につけ、1872年に学位を取得。
ハーバード大学で生理学・解剖学や心理学を講じる。
1875年には、アメリカで初めてとなる心理学の実験所を設立。
米国史上初の心理学の教授となる。
やがて、スペンサーの哲学(社会進化論)に興味を抱き、
生理学だけでは、人間の精神状態を説くのに十分でないと
疑問を抱きはじめ、哲学の道を歩む。
また心理学の研究と並行して、1880年には、
ハーバード大学で哲学の助教授に、1885年には同教授になった。
生涯の多くをハーバード大学の教授として過ごした。
また、ヨーロッパ各地へ旅行し、フランスのアンリ・ベルクソンやウィーン学派の
人々などとも交流を深め、自身の哲学にも影響した。
ジェームズを通して、ルノヴィエ、ホッジスン、フェヒネル、パース、
サンタヤナ、パピニ、シラー、デューイ、ミュンステルベルク、パウルゼン、
ブゥトルーなどの新旧の思想家がアメリカ学会に紹介された。
当時アメリカで出版されたばかりの内村鑑三
『余はいかにしてキリスト教徒となりしか』に興味を持ち、
それを推薦した人からもらった感謝状が残っている。
教師としての業績も卓越しており、ソフトで魅力的な語り口のジェームズの講義は、
当時の学生たちを虜にしたといわれている。
著「プラグマティズム」、「心理学」、「根本的経験論 」など。
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イギリスの詩人、文芸評論家、劇作家。 John Dryden(ジョン・ドライデン)
1631-1700年
「恋は治療し得ない病である。」
ドライデンは、ノーサンプトンシャー州オーンドル(Oundle)近郊の
オールドウィンクル(Aldwinkle)村の、
彼の祖父が諸聖司祭を務めていた牧師館で生まれた。
いくつもの英雄劇・風趣喜劇を世に送り出したが、
その中でも最も成功したのは『All for Love』 (1677) である。
この作品はシェイクスピア時代の ブランク・ヴァース が用いられているが、
そもそもこの作品はシェイクスピアの『アントニーとクレオパトラ』の改作である。
ドライデンは場面展開の多い原作を、恋人たちの最期の一日凝縮し、
時代に合った作品に作り変えた。
またドライデンは批評家としても知られており後にジョンソン博士が
「イギリス批評文学の父」と呼んだように、優れた業績を残している。
その文章が正確かつ明瞭な散文で書かれていることから、
「イギリス近代散文の父」とも呼ばれることがある。
ドライデンは1700年に逝去し、ウェストミンスター寺院に埋葬された。
ドライデンの詩人としての影響は生前には計り知れないほど大きく、
彼の死によりイギリス文学界が受けた損失は、
その影響を受けたエレジーからも明白に見て取れる。
著「Annus Mirabilis」、「All for Love」、喜劇「The Tempest 」など。
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人生は振り返らなければ理解できないが、
前を向かなければ進んで行かない。 |
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デンマークの宗教思想家、哲学者。
Soren Aabye Kierkegaard(セーレン・オービエ・キェルケゴール)
1813-1855年
「人生は解かれるべき問題ではなく、経験されるべき現実である。」
キルケゴールは、その著作を意図的に非体系的にし、その多くは当初偽名で出版された。
彼は自分の哲学をしめす言葉として実存をもちいたが、
それは、哲学とはヘーゲルの考えるような一枚岩的な体系ではなく、
どこまでも個人の生の考察の表現だと考えたからであった。
ヘーゲルは、人間の生と歴史についての完全な合理的理解に達したと主張したが、
キルケゴールは、最高の真理は主観的なものであるから、
生の根本的な問題は合理的客観的な説明をこばむものであると主張した。
キルケゴールの影響は、後にプロテスタント神学やカフカなどの小説家に強い
衝撃をあたえた。第一次世界大戦後に実存主義の思想がヨーロッパ全体をまきこむにつれ、
彼の著作は各国で翻訳され、現代文化に大きな影響力をもつ人物とみなされるようになった。
著「不安の概念」、「反復」、「死に至る病」など。
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臆病者は死を怖れるだろうが、勇敢な者はろうそくの
燃えかすとなって生きながらえるよりも消されるほうを望む。 |
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イギリス 探検家、作家、詩人
Walter Raleigh (ウォルター・ローリー)
1552年または1554年-1618年
「私はシェークスピアのような本は書けない。だが、私の本は書ける 。」
ウォルター・ローリーは1552年頃、デヴォン州のバドリー・サルタートン
(Budleigh Salterton)からさほど遠くないヘイズ・バートン(Hayes Barton)の家で生まれた。
ローリーは、幾度かにわたって旅行・探検・植民目的での新世界への航海を行った。
新世界における最初のイングランド植民地は、ローリーによってロアノーク島に築かれた。
この植民は、さまざまな理由により島を放棄することを余儀なくされた。
最初の入植者の多くが農業や庭師の技術を持っていなかったこと、 島の土壌が砂状で、
乾燥し痩せた土地であったこと、そして入植者達の、アメリカを探検して金などの
貴重品を見つけて儲けようという当初の考えなどがその理由であった。
そのような一儲けが起こりそうもないことが明らかになると、彼らは引き上げようとした。
また、入植者が土地の先住民の作物を大量に要求したために、
入植者と先住民の関係が破綻した。
スペイン大使の要求が認められ、ローリーは1618年10月18日、
ホワイトホール宮殿で斬首刑に処せられた。
ローリーの最後の言葉は、斬首を行う斧を見せられた時の、
「これは劇薬であるが、すべての病を癒すものである」というものであった。
作品「我が人生とは何か」「嘘」など。
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人は自分が幸福であることを知らないから
不幸なのである。 |
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ロシア 小説家 思想家
Фёдор Михайлович Достоевский (フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキー)
1821-1881年
「概して、豊かな心の持ち主に、苦悩は必然である。」
モスクワの貧民救済病院の医師の次男として生まれ、15歳までモスクワの生家で暮らした。
工兵学校生・作家時代を送ったペテルブルクは
物語の舞台として数々の作品に登場する。
デビューこそ華々しかったものの、
続けて発表した『白夜』『二重人格』は酷評をもって迎えられる。
その後、ミハイル・ペトラシェフスキーが主宰する空想的社会主義サークルの
サークル員となったため、1849年に官憲に逮捕される。
死刑判決を受けるも、銃殺刑執行直前に皇帝からの特赦が与えられて
(この一連の特赦はすべて仕組まれたものであった)、
シベリア流刑へと減刑になり、オムスクで1854年まで服役する。
晩年に集大成ともいえる長編『カラマーゾフの兄弟』を脱稿。
その数ヵ月後の1881年1月28日に家族に看取られながら60歳で亡くなる。
著「罪と罰」「カラマーゾフの兄弟」など。
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才能とは、神からひそかに与えられ、
しかもわれわれがそれとは知らずに明るみに出す
授かりものである。 |
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フランス 哲学者、政治思想家
Charles-Louis de Montesquieu (シャルル=ルイ・ド・モンテスキュー)
1689-1755年
「人間は、考えないから、喋るようになる。 」
1689年1月18日、ボルドー近郊で生まれた。
7歳のときに母が亡くなり、母の遺産を継いでラ・ブレード男爵となる。
ボルドー大学法学部を卒業した後、1709年からパリに遊学し、
1713年末、父の訃報により帰郷する。
翌年、25歳でボルドーの高等法院の参事官となる。
1716年、伯父の死により、モンテスキュー男爵の爵位と
ボルドー高等法院副院長の官職を継ぐ。
しかし実務面には関心がなく、1721年には『ペルシア人の手紙』を匿名で出版。
1726年、37歳で辞職。 以後、学究生活に入る。
1728年1月、アカデミー・フランセーズの会員に選出された直後、
4月から諸国遍歴の旅に出る。
1731年に帰国。
1734年、『ローマ人盛衰原因論』、
1748年、『法の精神』を出版。
イギリスの政治に影響を受け、フランス絶対王政を批判し政治権力を分割し、
均衡と抑制による権力分立制の基礎を築いた。
法とは「事物の本性に由来する必然的な関係」であると定義し、
権力を分割しない統治形態による法からは政治的自由が保障されないと考え、
執筆に20年かけたといわれる著作『法の精神』で、
権力を立法・行政・司法に分割する三権分立論を唱えた。
晩年は視力の減退に悩まされた。
そんな中『百科全書』のために「趣味論」の執筆に取り組んだが、
完成することなく1755年2月10日にパリで逝去した。
著「ペルシア人の手紙」「法の精神」など。
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君、時というものは、それぞれの人間によって、
それぞれの速さで走るものなのだよ。 |
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イギリス 劇作家 詩人
William Shakespeare (ウィリアム シェイクスピア)
1564-1616年
「正直なほど富める遺産はない。」
エリザベス朝演劇の代表的な作家で、 最も優れた英文学の作家とも
言われている。 その卓越した人間観察眼と内面の心理描写は、
今日でも最高度の文学レベルをなしている。
1585年前後にロンドンに出たといわれ、
1592年には新進の劇作家として活躍。
1612年ごろに引退するまでの約20年間に
四大悲劇『ハムレット』、『マクベス』、『オセロ』、『リア王』をはじめ、
『ロミオとジュリエット』、『ヴェニスの商人』、『夏の夜の夢』、
『ジュリアス・シーザー』など多くの傑作を残した。
『ヴィーナスとアドーニス』のような物語詩もあり、
特に『ソネット集』は今日でも最高の詩編の一つと見なされている。
作品「ロミオとジュリエット」「ヴェニスの商人」「ハムレット」など。
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今日の運命は、今日という日が決めるのではない。
あなたが決めるのだ。 |
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日本 官人、歌人
Kenkou Yosida (吉田兼好)
1283~1350年(※推定)
「あなたは周囲のいいところだけを、徹底して見習えばいいのである。」
本名は卜部兼好(うらべ かねよし/うらべ の かねよし)。
卜部氏の嫡流は後の時代に吉田家、平野家などに分かれ、
兼好は吉田家の系統であったことから江戸時代以降は吉田兼好と
通称されるようになった。
また出家したことから兼好法師(けんこうほうし)とも呼ばれ、
中学校国語の検定済み教科書ではすべて「兼好法師」と表している。
日本三大随筆の一つとされる『徒然草』の作者であり、
また私家集『兼好法師家集』がある。
没年は、『大日本史料』所引の『諸寺過去帳』収載『法金剛院過去帳』の記載や、
17世紀中葉の大和田気求『徒然草古今抄』の記す伝承により、
観応元年/正平5年4月8日(1350年5月14日)ともされていたが、
この日付以降の活動を示す史料が複数指摘され、
その中でもっとも遅いものとして1352年8月の『後普光園院殿御百首』奥書に
名前がみえることから、現在の通説ではこの年以後と考えられている。
なお、生年の弘安6年というのは、観応元年を没年とする伝承の一部に
享年を68歳と記すことからの逆算であるが、
特に否定する史料が発見されていないことから、恐らくこの頃の生誕とされている。
作品「徒然草」「訴訟狂」「兼好法師家集」など。
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最大の危険は、目標が高すぎて達成出来ないことではない。
目標が低すぎて、その低い目標を達成してしまうことだ。 |
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イタリア 彫刻家、画家、建築家、詩人
Michelangelo di Lodovico Buonarroti Simoni (ミケランジェロ・ブオナローティ)
1475-1564年
「神よ、どうか私をお許しください。いつも創造を超えて想像することを。 」
西洋で最も巨大な絵画の一つとも言われるバチカンのシスティーナ礼拝堂の
天井フレスコ画や『最後の審判』、パオリーナ礼拝堂にある『聖ペテロの磔刑』、
『パウロの改宗』を描いたことでよく知られている。
もともとは彫刻家であり、『ピエタ』や『ダビデ像』等の傑作のほかにも
『バッカス』、『モーセ』、『ラケル』、『レア』などが有名である。
バチカンの『サン・ピエトロ大聖堂』の設計者でもある。
レオナルド・ダ・ヴィンチ、ラファエロ・サンティとともにルネサンスの三大巨匠と呼ばれる。
ミケランジェロは長命であり、作品も盛期ルネサンスの時代から、
マニエリスムの時代への移り変わりを示している。
また躍動的な表現は、次のバロックの時代を準備したといわれる。
作品「ダビデ像」「システィーナ礼拝堂天井画」「最後の審判」など。
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勇気とは、恐ろしくて半分死にそうになっている時でさえ、
その場に必要な行動が取れる能力である。 |
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セルジューク朝(トルコ) 学者・詩人
Omar Khayyam (ウマル・ハイヤーム)
1544-1579年
「過ちを見てそれを正そうとしなければ過ちを犯した者と同罪だ。 」
イラン=イスラーム文化の代表者。
ウマルの名を現代ペルシア語風に読んでオマル・ハイヤームともいう。
全名アブー・ハフス・ウマル・イブン・イブラーヒーム・ハイヤーミー・ニーシャーブーリー。
「ハイヤーム」は、アラビア語からの借用語で「天幕造り」の意味であり、
ハイヤームの父親の職業が天幕造りであったことから、このように呼ばれている。
メルヴの天文台で暦法改正にたずさわり、
現在のイラン暦の元となるジャラーリー暦を作成した。
33年に8回の閏年を置くもので、グレゴリウス暦よりも正確なものであった。
また、無常観が言葉の端々に表れるペルシア語によるルバーイイ(四行詩)を多数うたい、
詩人としても高い評価を得ていた。
彼のルバーイイを集めた作品集は『ルバイヤート』として、故地イランのみならず、
各国で翻訳され出版されている。
存命中は数学者としても著名であり、放物線と円のあいだの交点によって
三次方程式を解く方法を考案したことで広く知られていた。
ウマルが試みた解法のアプローチは、彼以前にすでに、古代ギリシアの数学者であり、
アレクサンドロス大王の教師で「数学に王道はない」と述べたとも
伝わっているメナイクモス(紀元前380年-320年)などによって試みられていたが、
ハイヤームは方法を発展させて一般化し、三次方程式一般の解法を提示した。
更にハイヤームは、二項展開を発見し、エウクレイデスの平行線の理論に
対する批判書を著し、これは欧州に伝わり、結果的に非ユークリッド幾何学の
発展に寄与した。
著「ルバイヤート」など。
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日本 戦国武将
Hanbee Takenaka(竹中 半兵衛)
1544-1579年
「小便など、ここでしろ」
戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。
諱は重虎(しげとら)ともいわれる。
羽柴秀吉(豊臣秀吉)の軍師として活躍した名将である。
戦国時代を代表する軍師であり、
同時代の黒田孝高(黒田官兵衛)と並んで
天才軍師と称されている。
黒田孝高(官兵衛)と共に「両兵衛」・「二兵衛」と称され、
中国の漢王朝創設に活躍した陳平に例えられている。
信長の軍勢を寡勢で何度も破ったことから、
軍略の天才として、「今楠木」と称された。
『武功夜話』によると、「その才温雅にして慈眼あり
学才あって軍書に詳しい」とあり、 戦場では常に
「泰然自若の構え」で敵と対したと記されている。
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日本 戦国武将
Tadaoki Hosoaki(細川 忠興)
1563年-1646年
「部下は将棋の駒と思え。」
戦国時代から江戸時代前期にかけての武将、大名。
丹後宮津城主を経て豊前小倉藩初代藩主。
茶道の流派三斎流の開祖。
熊本藩細川家初代。
父・細川幽斎と同じ教養人でもあり、和歌や能楽、絵画にも通じた文化人であった。
千利休に師事し、利休に最も気に入られていた弟子で、
利休七哲の一人に数えられる。
利休が切腹を命じられたとき、利休にゆかりのある諸大名の中で、
見舞いに行った者は、忠興と古田織部だけであったとされる。
署「細川三斎茶書」など。
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幸運を与える財宝や境遇は、素直に受け容れよ。
ただし、それを手放すことも、素直に受け容れよ。 |
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ローマ 第16代ローマ帝国皇帝
Marcus Aurelius Antoninus (マルクス・アウレリウス・アントニヌス)
121年-180年
「人は自分の魂の動きを観察しないと、必ず不幸になるものだ。」
五賢帝の最後の1人でストア派哲学に精通し、
晩年には自らの体験を『自省録』に遺したことから、
後世「哲人皇帝」と称された人物。
五賢帝の時代は彼の治世をもって終わりを告げた。
ローマ市内には、皇帝騎馬像として唯一マルクス・アウレリウスの騎馬像のみが現存している
(ローマ時代に他の皇帝騎馬像も製作されたが、全て打ち棄てられたり破壊され、現存していない)。
軍馬にまたがり天を仰ぐ威風堂々とした軍装姿で、元々は別の場所に据えられていたが、
現在はカピトリーニ美術館内に展示されている。元々は全身を金で覆った黄金像であり、
現在でもその断片を通して古来の栄華を偲ぶことができる。
署「自省録」など。
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ドイツ 哲学者
Arthur Schopenhauer (アルトゥル・ショーペンハウアー)
1788-1860年
「あきらめを十分に用意することが、人生の旅支度をする際に何よりも重要だ。」
19世紀後半から20世紀にかけて活躍した多くの哲学者、芸術家、
作家に重要な影響を与えた人物。ゲーテと親交を結んだ。
ニーチェ、ヴァーグナー、トルストイ、フロイト、アインシュタインなど、
また日本においては森鴎外をはじめ、堀辰雄、萩原朔太郎など
多くの作家に影響を与えた。
卓絶した表現力と幅広い教養の持ち主で芸術論・自殺論が有名。
著「意志と表象としての世界」「カント哲学の批判」など。
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フランス 劇作家
Jean Baptiste Racine (ジャン・バティスト・ラシーヌ)
1639-1699年
「その人たちがいかなる人であったかよりも、いかなることをなしたかだ。」
フランス古典劇の三大作家の一人として喜劇のモリエール、
史劇のコルネイユと肩を並べ、 悲劇のラシーヌとして知られる人物。
シェークスピアと並ぶ大劇作家であると評されることもしばしばある。
ラシーヌの悲劇作品は、<時の単一><場の単一><筋の単一>による
三一致の法則を厳格に守ったものが多く、 均整の取れた人物描写と
劇的な筋の構成を、アレクサンドラン詩行と呼ばれるイアンボス6詩脚の
丹精で華麗な韻文に綴っているのが特徴である。
ラシーヌの代表作として今日もなお上演されるものには
「アンドロマック」、「ベレニス」、「フェードル」などがある。
作品「アレクサンドル大王」「訴訟狂」「バジャゼ」など。
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スコットランド 詩人・作家
Walter Scott (ウォルター・スコット)
1771-1832年
「悦びのない人生は油のないランプである。」
当初は物語詩人として名声を博す。
後に歴史小説に転じ、 近代歴史小説の祖といわれる人物。
エディンバラ大学で法学を学び、父の跡を継いで弁護士となるも25歳より文筆活動を始め、
歴史小説作家として名声を博す。
ウォルター・スコットの肖像はスコットランド銀行発行のすべての紙幣に使用されている。
著「ロブロイ」「アイヴァンホー」など。
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時には今日なく、永劫には未来なく、永遠には過去はない。 |
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ノルウェー 劇作家
Alfred Tennyson (アルフレッド・テニスン)
1809-1892年
「どうして、そして、なぜ。」
1850年ウィリアム・ワーズワースの後継者として桂冠詩人に任命された、
ヴィクトリア朝時代のイギリス詩人。
ケンブリッジに学び、在学中から詩作を志すも、活動当初は世間からの酷評に合う。
学友であり親友のハラムの死を経て詩と思想は確立していく。
親友との死別体験を約18年かけて書き綴った
「In Memoriam A.H.H(イン・メモリアム) 」は ヴィクトリア朝時代の
英詩の最高峰の哀悼詩と評されている。
現在ではJ.ミルトンの「Lycidas(リシダス)」、
P.B.シェリーの「Adonais(アドネイス)」 と並び「イギリス三大挽歌」とされている。
「In Memoriam A.H.H」発表後も「Idylls of the King ( 国王牧歌)」など
精力的に詩作品を発表し、 1884年に男爵位を授けられた。
著作「In Memoriam A.H.H」「Idylls of the King」「Crossing the Bar」など。
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愛は時の威力を破り、未来と過去とを、永遠に結び合わせる。 |
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ノルウェー 劇作家
Wilhelm Muller (ヴィルヘルム・ミュラー)
1794-1827年
「機会を待て、だが、けっして時を待つな。」
宮廷に仕え、シューベルトの「冬の旅」を作詩したことでも有名な詩人。
ギリシア独立運動とトルコに対する解放戦争を支持し、
『ギリシア人の歌』六巻(1821~1824年)を発表したことにより
「ギリシアのミュラー」と呼ばれることになる。
ミュラーの詩の特徴としては、夢と現実のような二項対立的表現と、
正‐反‐合という弁証法的構成が多い。
メンデスルゾーン、ゲーテなどと交流があり、交友関係は広かったが、
1827年10月1日、33歳の誕生日前に脳卒中で他界した。
著作「冬の旅」「春の夢」「ローマ、ローマ男たち、ローマ女たち」など。
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人生は後ろ向きにしか理解できないが、前向きにしか生きられない。 |
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スペイン 哲学者
Soren Aabye Kierkegaard (セーレン・オービエ・キェルケゴール)
1813 - 1855年
「人生は解かれるべき問題ではなく、経験されるべき現実である。」
当時のデンマークにおいて絶大な影響力を誇っていたヘーゲル哲学と対立し、
一般に実存主義の創始者と評される哲学者。
内容を伴わず形式ばかりにこだわる当時のデンマーク教会に対する、
痛烈な批判者であった。 キェルケゴールは著述家として生涯を駆け、
急逝するまでに多量の著作を残した。
「世界中で最も多量のインクを使った人」と言われる程、
どの部屋にもインクとペンが用意され、
考えが浮かぶと、歩みを止めて書きつけたという。
著作「人生における諸段階」「不安の概念」「愛の業(わざ)」など。
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ドイツ 作曲家
Ludwig van Beethoven (ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン)
1770年 - 1827年
言語哲学、分析哲学に強い影響を与え人物。
「真に称賛すべき人間の特長とは、逆境に直面した時、強い信念のもと自分の生き方を貫く事が出来ることだ。 」
『楽聖』と呼ばれた、クラシック音楽史上最も偉大な作曲家の一人。
1774年頃、父からの教育により音楽と出会う。 以来、母の死、父の失職、生活苦、
憧れていたモーツァルトへの弟子入り失敗、 そして音楽家として聴覚を失うという
大きな絶望を経験するが、 強い精神力をもって自らの苦悩と向き合い、
生涯に渡って名曲を生み出し続けた。
古典派からロマン派への橋渡しを行ったと言われるほど
ベートーヴェンの後の音楽家への影響は大きく、
一作一作が芸術作品として意味を持つ『創作』であったことは、
音楽の歴史において重要な分岐点であり、
革命的とも言える出来事であった。
死後、「不滅の恋人」宛に書かれた1812年の手紙が3通発見された。
著作「交響曲第三番 エロイカ」」「交響曲第五番 運命」「3大ピアノソナタ」など。
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歴史が私にどんな関係があろう。 私の世界こそが、最初にして唯一の世界なのだ。 |
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オーストリア 哲学者
Ludwig Josef Johann Wittgenstein (ルートヴィヒ・ヨーゼフ・ヨーハン・ウィトゲンシュタイン).
1889年 - 1951年
言語哲学、分析哲学に強い影響を与え人物。
ケンブリッジ大学・トリニティ・カレッジのバートランド・ラッセルのもとで哲学を学ぶ。
『論考』での記号論理学中心、言語間普遍論理想定、の哲学に対する姿勢を変え、コミュニケーション行為に重点をずらし自らの哲学の再構築に挑む。
著「論理哲学論考」など。
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イギリス 政治家
Benjamin Disraeli (ベンジャミン・ディズレーリ)
1804-1881年
「青年期は大失策であり、壮年期は闘争であり、老年期は悔悟である。」
1868年、1874年~1880年に在任した、イギリスのヴィクトリア朝期の首相。
政治家となる以前は、1826年に発表した小説「Vivian Grey (ヴィヴィアン・グレイ)」が
大きな反響を呼んだことをきっかけに、 小説家としての地歩を固めていた。
1837年に保守党(トーリー党)から議会に選出される。
保守党ダービー内閣で3度蔵相を務め、 首相就任後は
宿敵ウィリアム・グラッドストンと共にヴィクトリア期のイギリス政党政治を牽引した。
また、現在に至るまでイギリス首相となったユダヤ人はディズレーリのみである。
1876年に伯爵を授けられ、ビーコンズフィールド伯となった。
著作「幸福論」「Vivian Grey」「エンディミオン」など。
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分別よりも愚行の方がとかく仲間や追随者を呼び寄せるものだ。 |
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スイス 哲学者
Miguel de Cervantes Saavedra (ミゲル・デ・セルバンテス・サアベドラ) 1547-1616年
「喜劇で一番難しい役は愚か者の役であり、それを演ずる役者は愚か者ではない。」
風刺とユーモアに満ち、自由奔放な空想が特色の、スペイン語による世界的大文学者の一人。
生涯詩人を夢見ていたが、1597年に投獄され、牢獄において構想した
小説『ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ』によって不朽の名声を得ることとなった。
ドン・キホーテの成功にも関わらず版権を安く売り渡していたため
セルバンテスの生活は良くならなかったが、その後も創作活動は続き、
シェイクスピアを始めとした同時代および後世に多大な影響を与えた。
著「模範小説集」「ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ」「ペルシーレスとシヒスムンダの苦難」など。
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この地上には興味ないことなんて何も存在しないのだ。
存在するのはただ、興味のない人だけだ。 |
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イギリス 作家
Gilbert Keith Chesterton (ギルバート・ケイス・チェスタートン) 1874年-1936年
「解決策がわからないのではない。問題がわかっていないのだ。 」
ボーア戦争勃発に際して反イギリス側の論客として頭角をあらわし自由主義派の
有力な論客としてイギリスの政治・社会を糾弾した人物。
1904年に長編小説 『新ナポレオン奇譚』を刊行。
また、1909年には『棒大なる針小』を発表する。
後期ヴィクトリア朝時代の物質主義・機械万能主義と自己満足とに対して
鋭い批判を加え、 資本主義・社会主義双方を排撃し配分主義を提唱した。
著「異端者の群れ」「新ナポレオン奇譚」「詩人と狂人たち」など。
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私は不正を行って、罪とならないよりも、
善をなし、感謝されないはうがよい。 |
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共和政ローマ 政治家
Marcus Porcius Cato Uticensis (マルクス・ポルキウス・カトー・ウティケンシス)
. 紀元前95年-紀元前46年
「欲しいと思うものを買うな。必要なものだけ買え。 」
紀元前67年、マケドニア属州で軍務につき陣頭指揮を取った人物。
ローマ軍の兵站を担当して、寝食を兵士と共にし、厳しい軍律を兵士に強いたが、
軍団兵はカトーを支持したと伝えられている。
紀元前65年にマケドニアでの軍務を終えて、シリアや小アジアを旅した後に、
ローマへ帰還したカトーは、クァエストル(財務官)に選出された。
職務に必要な知識、特に税金に関連する法を勉強し、
任期中に不正に国庫の資金を流用したクァエストル経験者を告発した。
年末にカトーは退任したが、ローマ市民はカトーに喝采を送ったと伝わっている。
著「プルタルコス『英雄伝』」など。
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イギリス 画家
William Blake (ウィリアム・ブレイク). 1757年-1827年
「あらゆる現実はかつては空想でしかなかった。 」
「幻視者」(Visionary)の異名を持った人物。
唯理神ユリゼン(Urizen)やロス(Los)などの神話的登場人物たちが現れる
『四人のゾアたち』 『ミルトン』『エルサレム』などの「預言書」と呼ばれる
作品群において独自の象徴的神話体系を構築した。
日本では、明治27年(1894年)、大和田建樹により初めてブレイクの詩が
日本語訳され、紹介された。 大正期には、白樺派の柳宗悦による本格的ブレイク研究が
手がけられ、以後、日本におけるブレイク受容と研究がきわめて盛んに行われるようになる。
ブレイクは多くの思想家、アーティストたちにインスピレーションを与え続けている。
著「無垢のうた」「両性のために 楽園の門」など
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時は貴重であるが、真実はそれよりもっと貴重である。 |
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イギリス 政治家
Benjamin Disraeli (ベンジャミン・ディズレーリ) . 1804年-1881年
「人生は運命にほかならない。青年は過ちを犯し、壮年は争い、老年は悔悟する。 」
イギリスのヴィクトリア朝の政治家であり、宿敵ウィリアム・グラッドストンと共に
ヴィクトリア期のイギリス政党政治を牽引した人物。
1876年に伯爵を授けられ、ビーコンズフィールド伯となった。
なお、ビーコンズフィールド伯爵位は 彼の死後は誰にも継承されず、廃絶した。
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詩人
Henry Wadsworth Longfellow (ヘンリー・ワーズワース・ロングフェロー)
.1807 -1882年
「ときとしてわれわれは、ひとりの人間の徳からよりも失敗から多くのことを学ぶだろう。 」
母方からは、メイフラワー号の乗船者であるプリシラ・アルデンを始め、
歴代大統領を多く輩出したジョン・ラスロップ牧師の血も受けていた人物。
父親は弁護士であり、母方の祖父ペレグ・ワーズワース・シニアは
アメリカ独立戦争中の将軍であった。
著「ポール・リビアの騎行」
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過去に興味はない。未来に興味がある。
なぜなら、そこで残りの人生を過ごすことになるからだ。 |
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社会哲学家
Charles Franklin Kettering(チャールズ・フランクリン・ケタリング)
.1876 -1958年
「成長は与えられるものではなく,自らの手で勝ち取るもの 」
米国オハイオ州ラウドンビル生まれで、農業、先生、メカニック、エンジニア、科学者でもある。
オハイオ州立大学で電気工学を専攻、1904年に卒業し、新しいアイデアというものは
チームであればこそ進化させることができるとの考えをもち、
興味関心事にこれを広く適用した。
自動車関連の研究のため、エドワード・A・ディーズと共に、
1909年、デイトン・エンジニアリング・ラボラトリーズ・カンパニー(デルコ)を創設。
ケタリングとディーズとは事業においても、専門家としても、また、個人としても生涯の友だった。
デルコは、1920年にゼネラル・モーターズ(GM)に売却され、
ゼネラル・モーターズ・リサーチ・コーポレーション
(General Motors Research Corporation)、
およびデルコ・エレクトロニクス(Delco Electronics)に発展する。
売却したケタリングはゼネラル・モーターズ・リサーチ・コーポレーションの副社長となり、
その後27年 間、GMの研究所を率いた。
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古代ローマ 思想家
Lucius Annaeus Seneca (ルキウス・アンナエウス・セネカ)
.紀元前4年-紀元前65年
「もし君が人に愛されようと思うなら、まず君が人を愛さなければならない。」
治世初期に皇帝ネロのブレーンを勤めた人物。
またストア哲学の徒としても著名で、劇作も行っており、ラテン文学の白銀期を代表する著述家とされる。
ローマ市民としてコルドバに生まれ、皇帝ネロの家庭教師も務めた。
ネロが皇帝に即位した後はその政策の助言を行うが、のちにその立場から退き、
最後はネロ暗殺の陰謀に加担したとしてネロから死を命じられ自殺する。
著「幸福な人生について」など。。
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日本 美術家
Tenshin Okakura (岡倉 天心).1863-1913
「われわれは、われわれの歴史の中にわれわれの未来の秘密が
よこたわっているということを本質的に知る。」
東京美術学校(現・東京藝術大学)の設立に貢献。
日本美術院を創始した人物。
幼い頃から英語教育を受け、英語が得意だったことから、東京開成所講師の
アーネスト・フェノロサの助手となり、フェノロサの美術品収集を手伝う。
1886年から翌年に掛けて東京美術学校設立のため、欧米に視察に赴く。
帰国後、美術雑誌『国華』創刊。
1890年から東京美術学校・校長を務め、横山大観、下村観山、菱田春草らを育成。
その一方、フェノロサらとともに全国の古美術調査を行う。
「日本の目覚め」をロンドン、ニューヨークから英文で出版し、
東洋の優秀性を主張するとともに日本の役割を強調する。
著「東洋の理想」「茶の本」など。
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| 幸福は幸福の中にあるのではなく、幸福を手に入れた瞬間にある。 |
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ロシア 小説家
Fyodor Mikhailovich Dostoevsky (フョードル・ミハイロビッチ・ドストエフスキー)
.1821-1881
ロシア文学を代表する人物。 モスクワの貧民救済病院の医師の次男として生まれる。
1846年『貧しき人々』を発表。批評家ベリンスキーに「第二のゴーゴリ」と激賞され
華々しく作家デビューを果たす。
1849年に空想的社会主義サークルの会員となったため、
官憲に逮捕され死刑判決を受けるも、 処刑間際で特赦が与えられる。
しかし、1854年までシベリアで服役。
後に、この時の体験に基づいて『死の家の記録』を著す。
他にも『白痴』などで、死刑直前の囚人の気持ちが語られるなど、
この事件は以後の作風に多大な影響を与えた。
刑期終了後、『罪と罰』を発表し、高い評価を得る。
晩年には集大成ともいえる長編『カラマーゾフの兄弟』を脱稿。
著「白痴」「未成年」など。
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ドイツ 戯曲家
Friedrich von schiller (フレデリック・ヴァン・シラー).1759-1805
「苦痛は短く、喜びは永遠である。」
ゲーテとともにドイツ古典主義の 黄金時代を築き上げた人物。
若い時にはシュトルム・ウント・ドランクと呼ばれる文芸運動に参加し、
この運動で感情の力を強調しようとした。
戯曲には『群盗』『ドン・カルロス』『オルレアンの少女』『ウィリアムテル』などが上げられる。
著「理想と人生」「散歩」など。
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人生は戦場なり。戦いを宣告したうえは
書に向かっては書を征服し
人に向かっては人を征服し
事業に向かっては事業を征服するまで止むべからず。
何物、何事、何人に対しても仇討ちの覚悟をもって戦うべし。
死すとも勝つの覚悟あれ。 |
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日本 小説家
Doppo Kunikida (国木田独歩).1871-1908
「男女相愛して肉欲に至は自然あり。肉交なき恋は事実にあらずして空想なり。」
1903年発表の『運命論者』『正直者』で自然主義の先駆となった人物。
雑誌『婦人画報』の創刊者としても有名。
自然主義の作品を集めた『独歩集』『運命』は高く評価されている。
著「武蔵野」「二老人」など。
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インド 詩人・思想家
Rabindranath Tagore (ラヴィーンドラナート・タゴール).1861-1941
「間違いを犯すのを怖れて、戸を閉ざせば、真実も締め出されてしまう。」
アジア人として初のノーベル文学賞を受賞した人物。
インド国歌及びバングラデシュ国歌の作詞・作曲者も行っている。
マハトマ・ガンディー、ロマン・ロラン、アルバート・アインシュタインら
世界の知識人との親交も深かった。
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私たち一人一人が航海している。
この人生の広漠とした大洋の中で
理性は羅針盤、情熱は疾風。 |
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スイス 精神科医・心理学者
Alexander Pope (アレキサンダー・ポープ).1688-1744
簡潔な格言風の韻文で書かれた詩論で、
当時の上流階級には好評を博した人物。
生来虚弱で学校教育を受けず、独学で古典に親しみ、
幼少の頃から詩作を試みたと言われている。
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我々は虹を見ても、未開人が抱くような敬虔な
気持ちを持つことがない。
なぜならば、虹がどうしてできるのかを知っているからだ。
我々はそうしたものを詮索することによって
獲得したのと、同じだけのものを失っている。 |
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アメリカ合衆国 小説家
Mark Twain (マーク・トウェイン).1835-1910
「アダムがリンゴを欲しがったのは、そのリンゴが食べたかったからではない。
ただそれが禁じられていたから、というだけのことだ。」
著名なアメリカ人作家。
本名、サミュエル・ラングホーン・クレメンズ
代表作として『トム・ソーヤーの冒険』がある。
「マーク・トウェイン」という名は、川を蒸気船が航行する際の
測深手の水先人への合図 “by the mark, twain”(2ファゾム:約3.6m)から採った
(これは蒸気船が座礁せず安全に通航できる限界の浅さ)。
著「トム・ソーヤーの冒険」「ハックルベリー・フィンの冒険」など。
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イタリア 哲学者
Dante Alighieri (ダンテ・アリギエーリ).1265-1321
叙事詩「神曲」および詩文集「新生」を著した人物。
イタリア文学最大の詩人と称されている。
ルネサンスの先蹤ともいわれる。
著「新生」「神曲」など。
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アメリカ 第37代大統領
Richard Milhous Nixon (リチャード・ミルハウス・ニクソン).1913-1994
第37代アメリカ合衆国大統領であった人物。
ウォーターゲート事件により、任期中に辞任した唯一のアメリカ大統領
(20世紀において)。
最後は辞任というかたちになったが、
任期中にベトナム戦争を終結させた 功績がある。
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良い行動が悪い行動になることがある。
狼を助ければ、羊を殺すことになるのだ。 |
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フランス 小説家・政治家
Victor Hugo (ヴィクトル・ユゴー).1802-1885
「黒い光が見える」最期の言葉
フランス文学史上屈指の名作といわれている『レ・ミゼラブル』を執筆した人物。
作家として大成功を収めており、今日まで彼の作品は残っている。
しかし、政治家としては逆境の連続で、幼少のころから
ずっと不幸の連続であった。
逸話として、ラクロワ出版社に出した世界一短い手紙がある。
ユゴーが出した手紙に書かれていたのは 「?」、
それに対しての返答が「!」のみであった。
これは『レ・ミゼラブル』の売れ行きを尋ねる手紙で、
「売れている?」に対して「ばっちり!」という意味だった。
著「レ・ミゼラブル」など。
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私は実験において失敗など一度たりともしていない。
これでは電球は光らないという発見を
いままでに、2万回してきたのだ。 |
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アメリカ 発明家
Thomas Alva Edison (トーマス・アルヴァ・エジソン).1847-1931
「1%のひらめきがなければ99%の努力は無駄である」
世界の発明王として知られている人物。
一般的に白熱電球の発明者のイメージがあるが、実際発明したのは
J.W.スワンである。彼はフィラメントに竹を使って電球を改良し、
電灯の事業化に成功した人物である。
その他にも、電話機の発明では、グレアム・ベルと激しく争った。
ベルが電話機の発明者とされているが、現在の電話機の原型は、
エジソンが発明したカーボンマイクを使った方式となっている。
アインシュタインと並ぶ、天才として今なお語られる偉人である。
逸話として、エジソンの死を弔うために、全米ではエジソンの功績を讃え、
1分間電灯が消された。
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アメリカ 教育者・社会福祉事業家
Helen Adams Keller (ヘレン・アダムス・ケラー).1880-1968
「人生は恐れを知らぬ冒険か、無か。」 障害を背負いながらも、
世界各地を歴訪し、身体障害者の教育・福祉に尽くした人物。
日本では「奇跡の人」というタイトルで、何度か舞台化・書籍化された。
著「わたしの生涯」など
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| 歴史とは、合意の上に成り立つ作り話以外の何物でもない。 |
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フランス 第一帝政の皇帝
Napoleon Bonaparte (ナポレオン・ボナパルト).1769-1821
「生きている兵士のほうが、死んだ皇帝よりずっと価値がある。」
いわずと知れた、フランス革命後のフランスをまとめあげた人物。
砲兵将校としてフランス革命に参加し頭角をあらわし、
軍人からフランス第一帝政の皇帝にまで上り詰めたが、
最後は孤島セントヘレナ島に幽閉された。
皇帝ナポレオン時代にフランス民法典、別名『ナポレオン法典』を制定。
「万人の法の前の平等」「国家の世俗性」「信教の自由」
「経済活動の自由」等の近代的な価値観を取り入れた画期的なものであり、
その後の近代的法典の基礎とされた。
幾度かの修正が加えられ、現代のオランダ・ポルトガル・日本などの
民法に影響を与えている。 1821年に死去し、1840年に遺骸が
フランスに返還された。
パリのオテル・デ・ザンヴァリッド(廃兵院)に葬られている。
現在でもフランスを代表する英雄として抜群の知名度を誇っている。
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教わって覚えたモノは浅いけれど
自分で苦しんで考えたことは深いんですよ。 |
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日本 企業家(シャープ創設者)
Hayakawa Tokuji (早川 徳次).1893-1980
「私自身について言うなら、よいアイデアの生まれるのは、
儲からなくてなんとかしようと苦しんでいるときである。」
シャープ創設者であり、シャープペンシルの発明者でもある人物。
実の兄と早川兄弟社を設立し、ベルトに穴を開けずに使える
バックル「徳尾錠」、現在のシャープペンシル「金属繰り出し鉛筆」、
国産第1号機の「鉱石ラジオ」などの発明により、業績を拡大。
それに伴い、早川金属工業研究所・早川電機工業と社名をかえ、
扱う商品も多角的になっていった。ラジオだけでなくテレビや電卓など
総合家電メーカーへの道を進み、現在のシャープとなる。
SHARPの由来 早川は大正時代に未開発分野であった金属文具の
製作技術の研究改良を進め、金属繰り出し鉛筆を発明。
エバー・レディー・シャープペンシルと命名し、一世を風靡した。
これが現在の“シャープ”の社名の由来となっている。
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最も強いものが生き残るのではない。
最も賢いものが残るのでもない。
唯一、生き残るのは変化するものである。 |
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イギリス 自然科学者
Charles Robert Darwin (チャールズ・ロバート・ダーウィン).1809-1882
「平気で1時間を無駄にする者は、人生の価値をまだ見出していない。」
現代科学における進化論の方向性を確立した人物。
進化論以外でも生物学上のいくつもの重要な功績を残した。
植物学教授の勧めで、測量船ビーグル号で南半球を周航し、
動植物・地質を調査した。ガラパゴス諸島もこの際に訪れている。
後に、生物の進化の概念をまとめた『種の起源』を発表し、
当時のキリスト教より大変な批判を浴びた。
現在では偉大な英国人としてその功績が認められている。
彼は、製陶業で有名なジョシュア・ウェッジウッドを母方の祖父に生まれた。
もちろん、現在でも幅広い支持を受けているWEDGWOOD(ウェッジウッド)である。
著「種の起源」「ビーグル号航海記」など。
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中国 思想家
Koshi(孔子).紀元前551年-紀元前479年
「学を好み、死を守りて道を善くす。」
シャーマニズム的な原始儒教を体系化し、
一つの道徳・思想に昇華させ、儒教を大成させた人物。
根本義にあるのは「仁」である。
仁が様々な場面において貫徹されることにより、
道徳が保たれると説いた。
あくまでも思想や道徳を説いており、
「子は怪、力、乱、神を語らず」という言葉からも知られるように 宗教性は希薄であった。
氏は孔、諱は丘、字は仲尼(ちゅうじ)。
孔子とは尊称(子は先生という意味)。
著「論語」など
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音感がいいとか悪いとか、そんなことはどうでもいい。
大体、画才があるやつにロクな絵描きはいないんだから。
センスなんかに頼るから駄目なんだ。 |
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日本 芸術家
Taro Okamoto(岡本太郎).1911-1996
「私は、人生の岐路に立った時、いつも困難なほうの道を選んできた。」
日本を代表する芸術家。
大阪の万国博覧会のシンボル「太陽の塔」を創ったことで有名。
スキー愛好家で、三浦雄一郎と親交があった。
スキーについて「どんな急斜面でも直滑降で滑るのがスキーの醍醐味だ」と
語っている。腕前はプロ並みだったと言われている。
作品「太陽の塔 in 大阪府万博記念公園」
・「若い時計台 in 東京都中央区銀座数奇屋」・「近鉄バファローズ“猛牛マーク”」など。
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「僕はずっと山に登りたいと思っている。
…でも明日にしよう」
おそらくあなたは永遠に登らないでしょう。 |
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アメリカ 教育学者
Leo F Buscaglia (レオ・ブスカリア).1924-1998
「何かをやってみることは、失敗の危険を冒すことだ。
しかし、危険を冒さない人は何も行わず、何も得ず、無に等しい。
苦しみや悲しみを避けることはできても学ぶことも、感じることも、
変化することも、成長することも 生きることも、そして 愛することもできない。」
米国の教育学者。
いのちについての学び方を教える絵本『葉っぱのフレディ』は
世界的に知られている。大学で教鞭を採っていた時、
教え子の自殺という事件に遭遇した。
それ以後、いのちの教育・いのちのかけがえのなさ・人を愛することなどに
関心を抱き、「ラブ・クラス」(Love 1A)という単位の出ないゼミを主催。
このゼミでの演習成果より、最初の著書『LOVE』が生まれた。
愛こそ世界の共通語だというのが、彼の信念である。
著書は世界17ヵ国の言語で1,800万部の売り上げを記録した。
著「LOVE EACHOTHER」
「もっと素直にすてきな愛をー愛のフィロソフィー」
「葉っぱのフレディーいのちの旅」など。
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青年よ、大志を抱け!
それは金銭に対してでも、自己の利益に対してでもなく、
また世の人間が名声と呼ぶあのむなしいものに対してでもない。
人間が人間として備えていなければならぬ、
あらゆることをなし遂げるため、青年よ大志を抱け。 |
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アメリカ 農学博士
William Smith Clark (ウィリアム・スミス・クラーク).1826-1886
「校則はひとつでよい。それはBE GENTLEMAN(紳士たれ)である」
米国マサチューセッツ農科大の学長。
日本側の熱烈な要請により農学・化学・英語教師そして教頭として、
北海道開拓のための農業技術者を養成することを目的とする
札幌農学校(現・北海道大学)に赴任。
赴任期間たったの8ヶ月ににも関わらず、日本の国際教育の土台を築き、
後世の教育に多大な影響を与えた。
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| 渋柿は渋柿として使え。継木をして甘くすることなど小細工である。 |
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日本 戦国大名
Shingen Takeda(武田信玄).1521-1573
戦国時代の大名で、甲斐国の守護。
越後の上杉謙信と5度にわたって川中島の戦いで
干戈を交えたことで有名。
領国は一時、甲斐・信濃・駿河・上野・飛騨・美濃・三河・遠江の一部まで 拡大。
戦国最強と謳われた騎馬隊と戦術を駆使し“甲斐の虎”と呼ばれていた。
また、孫子の兵法に通じており旗印を「風林火山」としていた。
晩年の信玄は京都を目指し上洛の軍を起こした。
三方ヶ原の合戦では織田・徳川連合軍を翻弄して圧倒的な勝利を収めたが、
病のため夢むなしく信州の伊那駒場で53歳の生涯を閉じた。
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| 常識とは十八歳までに身につけた偏見のコレクションのことをいう。 |
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ドイツ 理論物理学者
Albert Einstein (アルベルト・アインシュタイン).1879-1955
「学校で学んだことを一切忘れてしまった時になお残っているもの、
それこそ教育だ。」
20世紀最大の理論物理学者。
20世紀に於ける物理学史上の2大革命は“量子力学”と“相対性理論”。
その相対性理論の基礎をほぼ独力で築きあげた。
またニュートンの物理学を根本から書き直した。
1921年にノーベル物理学賞を受賞。
平和主義者としても知られている。
逸話として、ノーベル賞受賞後、ある少女に数学を教えていたことがあった。
少女の母親が、娘の家庭教師がアインシュタインと知って、
慌てて彼の元に訪れた。
しかし、彼は「私が彼女に教える以上のことを、
私は彼女から教わっているのだから、礼には及びません」と返答した。
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