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一言ギャラリー

恋の苦しみは、あらゆる他の悦びよりもずっと愉しい

イギリスの詩人、文芸評論家、劇作家。

John Dryden(ジョン・ドライデン)
1631-1700年

「恋は治療し得ない病である。」

ドライデンは、ノーサンプトンシャー州オーンドル(Oundle)近郊の
オールドウィンクル(Aldwinkle)村の、
彼の祖父が諸聖司祭を務めていた牧師館で生まれた。

いくつもの英雄劇・風趣喜劇を世に送り出したが、
その中でも最も成功したのは『All for Love』 (1677) である。

この作品はシェイクスピア時代の ブランク・ヴァース が用いられているが、
そもそもこの作品はシェイクスピアの『アントニーとクレオパトラ』の改作である。

ドライデンは場面展開の多い原作を、恋人たちの最期の一日凝縮し、
時代に合った作品に作り変えた。
またドライデンは批評家としても知られており後にジョンソン博士が
「イギリス批評文学の父」と呼んだように、優れた業績を残している。

その文章が正確かつ明瞭な散文で書かれていることから、
「イギリス近代散文の父」とも呼ばれることがある。

ドライデンは1700年に逝去し、ウェストミンスター寺院に埋葬された。
ドライデンの詩人としての影響は生前には計り知れないほど大きく、
彼の死によりイギリス文学界が受けた損失は、
その影響を受けたエレジーからも明白に見て取れる。

著「Annus Mirabilis」、「All for Love」、喜劇「The Tempest 」など。

仕事 愛 人間 人生

君が偉大な才能を持っているならば、勤勉がそれに磨きをかけるだろう。
君が普通の才能しか持っていないならば、勤勉がその不足を補うだろう。


イギリス 画家

Sir Joshua Reynolds (ジョシュア・レノルズ)
1723-1792年


「人間の真の性格は、彼の娯楽によって知られる」

1723年、イングランド南東部デヴォン州のプリンプトンに生まれる。
1749年から1752年にかけてイタリアに学び、ラファエッロやミケランジェロなどの
古典を熱心に研究した。

1768年にロイヤル・アカデミーが創設されるとその初代会長となり、
実作のみならず絵画の理論家・教育者としても大きな役割を果たした。

レノルズは、ラファエッロのような古典絵画の巨匠の様式(グランド・マナー)を重視し、
聖人・神話・歴史上の事件などを扱った「歴史画」を絵画ジャンルの首位に置いた。

肖像画の制作にあたってもモデルを宗教的・歴史的道具立てのなかで
理想化して描いた。

作品「マスター・ヘア」「ネリー・オブライエン」など。

私達は物を生産するだけの為に働くのではなく
時間の価値を見いだす為に働いているのだ。


フランス 画家

Ferdinand Victor Eugene Delacroix
(フェルディナン・ヴィクトール・ウジェーヌ・ドラクロワ)
1798-1863年


「君の健康を回復するためには、薬も療法も君に必要ではないのだ。
もっとも簡単に暮らすことがいちばんよい方法かもしれない。
少し食べ、少し飲み、そして早くから休むことだ。これは世界的な万能薬だ。」

1798年、パリ近郊のシャラントンに生まれた。
父は外交官シャルル・ドラクロワだが、実の父親はナポレオン帝政下などで
外務大臣を務め、ウィーン会議のフランス代表として知られる
シャルル・モーリス・ド・タレーラン=ペリゴールだといわれている。

苗字を分解するとde la croixで、「信仰(信条)に生きる者」を意味する。

1822年に始まり、ジュール・ヴェルヌと共にノートが失われて
1824年に中断、1832年に再開され、1863年の彼の死まで続いた。
このドラクロワの個人的な日記は、この画家の文字通りの傑作である。

そこには絵画、詩、音楽についての考えが書き留められている。
そこにはジョルジュ・サンド、 ショパン、 シャブリエ等との議論が記録されている。

それは単に画家の生活や彼の不安についてにとどまらず、
19世紀半ばのパリジャンの生活の日々の証言になっている。

1832年、フランス政府の外交使節に随行する記録画家としてモロッコを訪問した。
1834年の『アルジェの女たち』は、モロッコ旅行の際のデッサンをもとに
制作したものである。

1830年代以降は、リュクサンブール宮、パリ市庁舎など、
政府関係の大建築の装飾を数多く手掛け、1863年に死去するまで旺盛に制作を続けた。

著「民衆を導く自由の女神」「ダンテの小船」など。

金を稼がんとせば、金を使わねばならぬ。


ローマ 喜劇作家

Titus Maccius Plautus (ティトゥス・マッキウス・プラウトゥス).
紀元前254年-紀元前184年


「十人の聞きしことよりも一人の目撃のほうが価値あり。 」

メナンドロスらギリシア新喜劇を自由に翻案して,ローマ風に改作し,
民衆の活発な言葉を用い,機知・駄洒落(だじゃれ),
複雑巧妙な筋運び,唐突な展開などを得意とした人物。

著「ローマ喜劇」など。

勝利は苦戦のあとに来る。


フランス 政治家

Georges Clemenceau (ジョルジュ・クレマンソー) .
1841年-1929年


「平和を手に入れるより、戦争を始める方がはるかに易しい。 」

南北戦争中のアメリカに留学。同時にフランスの新聞の特派員を勤めた人物。

ドイツの分割政策に反対。フェルディナン・フォッシュ元帥と対立して訴訟合戦となった。

「ドイツの方角を睨んだまま、立った姿勢で埋葬してもらいたい」と遺言し、その通りに葬られた。

労働をなさざる人に真性の快楽は決して与へられず。


日本 小説家

Takeo Arisima (有島 武郎).1878-1923

「愛の表現は惜しみなく与えるだろう。しかし、愛の本体は惜しみなく奪うものだ。」

志賀直哉や武者小路実篤らとともに「白樺派」の中心を担った人物。

ハーバード大学でホイットマンやイプセンらの社会主義に傾倒。
また、西欧文学、ベルクソン、ニーチェなどの西洋哲学の影響を受けた。

同人誌「白樺」に参加し。「かんかん虫」「お末の死」などを発表。
後、「或る女」を発表。
婦人公論記者で人妻であった女性と軽井沢の別荘で心中。

著「生まれ出づる悩み」「迷路」など。

世の中に成功の秘訣なるものがあるとすれば
それはよく他人の心の中に入り
他人の立場から物事を扱うことができる才能にほかならない。


アメリカ 企業家(フォード・モーターの創設者)

Henry Ford (ヘンリー・フォード).1863-1947

「自分で薪を割れ、二重に温まる。」

自動車会社フォード・モーターの創設者。
工業製品の製造における大量生産の方式を開発し、
自動車を大衆に普及させることに貢献した。

カール・ベンツが自動車の産みの親であるなら、自動車の育ての親は
ヘンリー・フォードであると言われている。
トーマス・アルヴァ・エジソンとは、友人関係にあった。
逸話として、1929年にエジソンの白熱電灯発明50周年の記念祭を
ヘンリーが主催。

電球発明時のメンローパークの研究所を建物からすべて再現し、
82歳のエジソンを感動させた。

力不足だからこれはできないと思ってはいけない。

真心がその不足を補ってくれる。


日本 政治家

Yozan Uesugi (上杉鷹山)
1751-1822年


「してみせて 言って聞かせて させてみる。」

出羽国米沢藩の第9代藩主であった人物。

前藩主の怠惰により領地返上寸前になった米沢藩の、
再生のきっかけを作りだした。
江戸時代屈指の名君として知られている。

アメリカ合衆国第35代大統領ジョン・F・ケネディや第42代ビル・クリントンが、
日本人の政治家の中で一番尊敬している人物として彼を挙げている。

顧客に求められたら決してノーと言ってはいけない。
相手が月をほしがったとしてもだ。
とにかくやってみる余地はある。
いずれにしても、ダメだったあとで 説明する時間はたっぷりある。


スイス 実業家(ザ・リッツ・カールトングループの創設者)

Cesar Ritz (セザール・リッツ).1850-1918

「ここを我が家と思ってください。」

ホテルリッツ(パリ)とカールトンホテル(ロンドン)の経営で大成功を収めた人物。
ホテル王"king of hoteliers, and hotelier to kings"と呼ばれていた。
飼いの家庭に生まれる。

15歳でウエイターになったのを皮切りに、多くの一流ホテルの現場で
キャリアを積んだ。 顧客のニーズを細かくキャッチし
確実に実現させることに力を入れ、サヴォイ・ホテルで支配人を務めた後、
独立し1898年パリにホテル・リッツを創業。

ある事を真剣に3時間考えて、 自分の結論が正しいと思ったら
3年かかって考えてみたところでその結論は変わらないだろう。

アメリカ 第32代大統領

Franklin Delano Roosevelt (フランクリン・デラノ・ルーズベルト).1913-1994

第37代アメリカ合衆国大統領であった人物。
任期中に世界恐慌と第二次世界大戦を経験し、
20世紀の国際政治における中心的人物の一人。

米国史上唯一の4選された大統領であり、重度の身体障害も抱えていた。

チャレンジして失敗することを恐れるよりも、
何もしないことを恐れろ。

日本 実業家・技術者(本田技研工業の創業者)

Honda Souichirou (本田宗一郎).1906-1991

「社長なんて偉くも何ともない。課長、部長、包丁、盲腸と同じだ。
要するに命令系統をはっきりさせる記号に過ぎない。」

日本を代表する起業家であり技術者。本田技研工業創始者。
ソニーの井深大などと並んで、戦後日本を代表する
技術者・起業家として世界的に有名。

1946年に浜松市に本田技術研究所設立し、所長に就任。
1948年に本田技研工業株式会社を設立し、代表取締役就任。
翌年、後にホンダの副社長となる藤沢武夫と出会う。
経営面を任せ、二人でホンダを世界的大企業に育て上げた。

逸話として、勲一等瑞宝章受賞授賞式の際に、
「技術者の正装とは真っ白なツナギ(作業着)だ」と言い、
その服装で出席しようとした。

しかし、周囲から止められ、礼服で出席することとなった。

心に残るのは、千の忠告より一つの行為だ。

ノルウェー 劇作家

Henrik Ibsen (ヘンリク・イプセン).1769-1821

「人間は自分の現在と未来によってしか、自分の過去を償うことが出来ない。」

強い個人主義に立ち、婦人問題・社会問題を取り上げた
散文劇によって、後世の演劇に多大なる影響を与えた人物。

著「人形の家」「民衆の敵」「野鴨」など。

仕事は自分で探して、創り出すものだ。
与えられた仕事だけをやるのは、雑兵だ。

日本 戦国大名

Nobunaga Oda (織田信長).1534-1582

「是非に及ばず。」

戦国時代から安土桃山時代の大名。
古渡城主の織田信秀の二男(三男という説もある)として生まれる。

父の死後、織田信行との家督争いに勝利し織田家を継ぐ。
その後、かの有名は桶狭間の戦いを制し、今川家を破った。

破竹の勢いで上洛を果たし、信長包囲網なるものにも屈せず
天下布武を推し進めていった。

しかし、最後は家臣の明智光秀の謀略によって本能寺で自害した。

プロジェクトを組むときに大切なことは二つ。
“キーマン”を見つける。
そしてその人がやる気になるよう“説得”する。
それができれば、目的は半ば達成したようなもの。

日本 起業家(ソニー創始者の一人)

Masaru Ibuka (井深 大).1908-1997

「小さい会社を作って、またいろいろチャレンジしたいね。」

逝去直前の言葉 日本を代表する企業家。ソニー創始者の一人。

生前の盟友であった本田技研工業の本田宗一郎と
並び称される戦後日本を代表する起業家として世界的にも有名な人物。

1946年に資本金19万円で義父が社長・井深が
専務(技術担当)・盛田昭夫が常務(営業担当)として
東京通信工業(後のソニー)を創業。

新しい独自技術の開発にチャレンジし、
テープレコーダー・トランジスタラジオ・など数々の
日本初・世界初を生み出してきた。

SONYの由来
音『SONIC』の語源となったラテン語の『SONUS (ソヌス)』と
小さいとか坊やという意味の『SONNY』から来ている。

簡単な名前で、どこの国の言葉でもだいたい同じように読めて、
発音できることが大事という思想のもと考案された。

ディズニーランドはいつまでも未完成である。
現状維持では、後退するばかりである。

アメリカ 漫画家・アニメ製作者・映画監督・実業家

Walt Disney(ウォルト・ディズニー).1901-1966

「いつでも掃除が行き届いていて、おいしいものが食べられる。
そんな夢の世界を創りたい。」

世界的に有名なアニメーションキャラクター“ミッキーマウス”の生みの親。
世界初の長編アニメ「白雪姫」を手がけ、以後のアニメーションの芸術的、
興行的部分において多大なる影響を与えた。

大の鉄道マニアの一面があり、彼が創った夢の国“ディズニーランド”には
必ず鉄道が走っている。

作品「蒸気船ウィリー(ミッキー・マウス初主演作)」「白雪姫」「シンデレラ」など。